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シャルパンティエ『テ・デウム』 [Charpentier]

Marc-Antoine Charpentier:Te Deum, Missa Assumpta est Maria, Litanies de la Vierge
William Christie(dir.) Les Arts Florissants
Harmonia mundi france [CD:HMC 901298]

HMC901298f.JPG

【演奏】
ウィリアム・クリスティ指揮
レザール・フロリサン

【演奏者】
レザール・フロリサンは、1978年に、アメリカ生まれの指揮者ウィリアム・クリスティにより結成されたバロック・アンサンブル(声楽・器楽)。その演奏団体名は、M.A.シャルパンティエの牧歌劇『花咲ける芸術(Les Arts Florissants)』から名付けられた。クリスティは、バロック音楽の演奏法の革新をもたらし、バロック・オペラ復興に多大な貢献をしたことで知られ、シャルパンティエをはじめバロック音楽の演奏・録音には定評がある。クリスティは後進の育成にも熱心で、クリストフ・ルセやマルク・ミンコフスキなど、クリスティの下で学んだ数多い古楽演奏家の第一線での活躍ぶりは、「クリスティ星雲」のコピーを生んだ。クリスティとレザール・フロリサンは、日本にも数回来日しており、2002年8月には、東京日仏学院でウィリアム・クリスティを囲む会が開かれた。2003年2月には、ヘンデル『メサイア』全曲及びパーセル『妖精の女王』(抜粋)、J.P.ラモー(1683-1764)『優雅なインドの国々』(抜粋)がコンサート形式で披露された。また、2006年11月には、J.P.ラモーのオペラ『パラダン(遍歴騎士)』の舞台付き公演が行われている。最近の来日公演は、2016年10月13日(木)東京・サントリーホール「『声の庭』第7弾イタリアの庭で~愛のアカデミア」。


レザール・フロリサン公式サイト
http://www.arts-florissants.com/

【曲目】
マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643-1704)
・『テ・デウム(Te Deum)』(H.146)
・『聖母被昇天のミサ曲(Missa Assumpta est Maria)』(H.11)
・『聖母マリアへの連祷(Litanies de la Vierge』(H.83)
録音:1988年10月、パリ、ノートルダム・ドゥ・トラヴァーユ教会。
現在、上記盤はHarmonia mundi 社のカタログには掲載されていないが、SACD:HMC 801298, Gold Edition HMG501298として再発売されている。

【作曲者】
マルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(Marc-Antoine Charpentier, 1643-1704.2.24)は、フランスのバロック盛期を代表する作曲家のひとりである。シャルパンティエの活躍したルイ14世(Louis XIV, 1638.9.5-1715.9.1)治世下のフランスでは、音楽家がこぞって立身出世を求め宮廷に接近する風潮が見られ、ルイ14世の寵愛を受け、宮廷楽長を務めたジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully, 1632.11.28-1687.3.22)などは大いに権勢をふるった。シャルパンティエは、王室所属の音楽家でこそなかったものの、非常に多作であると同時に、宗教曲から世俗歌曲、歌劇に至る作品の多様性と、その洗練された作風によって知られた作曲家で、パリで教会付音楽家として重要なポストを歴任するなど、生前からリュリに勝るとも劣らぬ名声を得ていた。しかし、リュリがシャルパンティエに対する敵愾心から行ったとされる様々な妨害工作のためもあって、シャルパンティエの宮廷内での活動は限られたものであった。
シャルパンティエ再評価の機運が高まった契機としては、1727年に王立図書館がシャルパンティエの相続人から購入し、現在フランス国立図書館に所蔵されているシャルパンティエの550曲に及ぶ自筆譜(全28巻)が20世紀になって再発見されたことがあげられる。1982年、アメリカの音楽学者ヒュー・ウィリー・ヒッチコック(Hugh Wiley Hitchcock,1923.9.28-2007.12.5)が、これらの自筆譜をもとに作成したシャルパンティエの作品目録を出版したことから、シャルパンティエ作品はヒッチコック番号(H)をもって整理されるようになった。しかし、シャルパンティエの生涯については、いまだに不明の点が多く残されている。
最近の研究によれば、マルク=アントワーヌ・シャルパンティエは、1643年にパリ司教区に生まれた。シャルパンティエ家は、数世代前からパリ近郊のモーに居住していたことが確認されており、父ルイは書記官を務めていた。シャルパンティエには、エティエネット、マリー、エリザベトの3姉妹がおり、兄弟アルマン=ジャンが父の後を継いだ。シャルパンティエ自身は、18歳のとき、パリの法律学校に登録したが、僅か1学期で退学し、1662-69年の間の2、3年、ローマに留学したとされる。シャルパンティエは、ローマのフランス大使館で活動していた詩人、音楽家のシャルル・コワポー・ダスーシ(Charles Coypeau d'Assoucy,1605.10.16-1677.10.29)と、この頃に接触があったと見られている。一説には、シャルパンティエは、画家を志して留学したローマで、オラトリオの創始者として名高い作曲家、ジャコモ・カリッシミ(Giacomo Carissimi, 1605.4.18受洗-1674.1.12)と出会い、その楽才を見出されたとも言われているが、それを裏づけるに足る充分な史料は見つかっていない。シャルパンティエは、イエズス会の運営する学院コレギウム・ジェルマニクムにおいて、カリッシミに師事した可能性が高いと見られるが、事実として確認できるのは、フランス国立図書館所蔵のシャルパンティエ自筆譜が美しいつる草文様で巧みに彩られていることと、同時代のイタリアの音楽様式をフランスに持ち帰ったことのみである。
シャルパンティエは、ローマ留学を終え、パリに戻ると、1670年頃からギーズ公女マリー・ド・ロレーヌ(Marie de Lorraine, Duchess of Guise, “Mademoiselle de Guise”, 1615.8.15-1688.3.3)に作曲家、コントル=テノール(カウンターテナー)歌手として仕えた。そして、1688年にパトロンであるギーズ公女が他界するまで、詩篇唱、モテット、マニフィカト、ミサ曲及びギーズ公女の甥にあたるギーズ公ルイ・ジョセフの葬送のための音楽などの宗教曲、カンタータなどの世俗歌曲、牧歌劇、器楽曲等を多数作曲した。ギーズ公女のイタリア趣味を反映して、イタリア風のラテン語オラトリオや、シャルパンティエ自身がair sérieuxあるいはair à boireと呼んだフランス語の小品、その他分類しにくい小品も作曲された。シャルパンティエは、ギーズ公女に仕えるかたわら、ルイ14世の従姉妹で、ギーズ公ルイ・ジョセフ妃であった、ギーズ公爵夫人エリザベト・ドルレアン(Élisabeth Marguerite(Isabelle) d'Orléans, “Madame de Guise”, 1646.12.26-1696.3.17)や外部からの依頼にも応えるかたちで作曲活動を行った。
シャルパンティエの作曲活動上で特筆されることとしては、シャルパンティエが有名な劇作家モリエール(Molière,1622.1.15-1673.2.17)の国王の劇団(後のコメディ・フランセーズ)の音楽監督に抜擢されたことがある。モリエールは、1664年以来、ジャン=バティスト・リュリと協力して、コメディ=バレ(舞踊喜劇)の代表作である『強制結婚(Le Mariage forcé)』(1664)、『町人貴族(Le Bourgeois gentilhomme)』(1670)等で大成功をおさめていたが、1670年頃から、パレ・ロワイヤル座上演時の支払いをめぐってリュリと不和となり、訣別したのである。モリエールは、シャルパンティエをリュリの後任に迎え、1672年7月のパレ・ロワイヤル座の舞台向けに『強制結婚』及び『エスカルバニャス伯爵夫人(La Comtesse d'Escarbagnas)』の幕間音楽を新たに依頼した。ギーズ公女、ギーズ公爵夫人のあと押しもあって、1673年2月には、『病は気から(Le Malade imaginaire)』(1673)で、作曲者候補と目されていたダスーシを退け、モリエールとシャルパンティエの合作が実現した。1673年、『病は気から』の上演4日目にモリエールが急死したことから、モリエールとシャルパンティエの協力関係は短期間のうちに終わり、コメディ=バレの試みも終焉を迎えた。シャルパンティエは、モリエール亡き後も劇団との関係を保ち、ジャン・ドノー・ド・ヴィゼ(Jean Donneau de Visé,1638-1710)やトマ・コルネイユ(Thomas Corneille,1625-1709)らの劇作家と協力し、作曲活動を行った。
しかし、リュリが、1672年に王立音楽アカデミー(後のオペラ座)の上演権を買い取り、歌劇の上演に取り組み始め、音楽悲劇(抒情悲劇)と呼ばれるフランス歌劇の流れを確立した。リュリがモリエール没後にパレ・ロワイヤル座の興行権を取得し、王立音楽アカデミーの活動の場としたこともあり、リュリの3作目の歌劇『テゼ(Thésée)』 (1675)以降は、宮廷での初演後、パリの劇場で歌劇を一般に公開することが慣例となった。リュリはまた、他劇団に踊り手の出演を禁じ、舞台に起用できる音楽家数を制限するなどして上演を独占したため、リュリの規定人員を上回る音楽家を起用するようになったシャルパンティエは、1685年に規定違反を問われ、座付音楽家としての活動を断念するに至った。
その一方で、シャルパンティエは、1679年から1680年代初頭にかけて、王太子ルイ付きの音楽家を務め、主に王太子の礼拝堂のための宗教曲を作曲した。シャルパンティエは、1683年に王室礼拝堂副楽長職に出願しながら、病気のため、最終選考時点で辞退せざるを得なかったが、翌1684年、パリにおけるイエズス会の拠点であるサン=ルイ教会楽長に就任した。
シャルパンティエはまた、王太子ルイ付きの音楽家を務めていた1682年、ヴェルサイユ宮殿にあるルイ14世のアパルトマンで、歌劇(ディヴェルティスマン)『ヴェルサイユの愉しみ(Les plaisirs de Versailles)』(H.480)を上演した。1686年には、歌劇『オルフェウスの冥府下り(La Descente d'Orphee aux Enfers)』(H.488)が、王太子ルイのアパルトマン、もしくは、フォンテーヌブロー宮殿で上演された。リュリが歌劇をはじめ音楽劇に関する一切の権利を独占していた状況下で、宮廷やその周辺で、ギーズ家の音楽家によるシャルパンティエの歌劇上演が許されたのは、ギーズ公爵夫人の庇護によるところが大きかったと考えられる。ギーズ公爵夫人は、1684-1687年にも、冬の王宮の愉しみとして、フランス語歌劇、牧歌劇等の上演に尽力し、パリの自邸でも上演の機会を設けていたのである。
1687年にリュリが亡くなった後、イエズス会に奉職中のシャルパンティエは、宗教的歌劇『ダヴィデとヨナタン(David et Jonathas)』(H.490) (1688)を作曲し、王立音楽アカデミーにより独占されていた歌劇の上演慣行に抗して、イエズス会系コレージュで上演を行った。シャルパンティエはまた、1693年12月4日に、トマ・コルネイユ台本に基づく王立音楽アカデミーのための唯一の音楽悲劇(抒情悲劇)『メデ( Medee)』(H.491)を初演し、同時代人である音楽家、セバスチャン・ド・ブロサール(Sébastien de Brossard,1655.9.12-1730.4.10)等からも好意的に迎えられた。シャルパンティエは、ギーズ家の音楽家のひとりであったエティエンヌ・ルリエ(Étienne Loulié)の後を引き継ぎ、1692年から、ルイ14世の甥で、ルイ15世の摂政となったオルレアン公フィリップの音楽教師を務め、作曲法と通奏低音に関する書物を著しており、『メデ』はオルレアン公フィリップとの緊密な関係から生み出されたとする見方もある。
さらにシャルパンティエは、1698年にパリの王室ゆかりの教会、サント・シャペル楽長に任命され、1704年に亡くなるまでその職にあった。シャルパンティエが任期中に作曲した主要な作品には、『聖母被昇天ミサ曲(Mass Assumpta Est Maria)』(H 11)(c.1699)、オラトリオ『ソロモンの裁き(Judicium Salomonis)』(H 422)(1702)などがある。
シャルパンティエは、サント・シャペルの任期中にも宗教曲の傑作を残し、1704年2月24日にその生涯を閉じた。シャルパンティエの眠る墓地は、フランス革命後、もはや跡形もないまでに破壊されたが、世界文化遺産パリのセーヌ河岸の一角を占めるサント・シャペルは、19世紀に修復され、ステンドグラスに往時の姿を偲ぶことができる。


【作品】
シャルパンティエは、多彩な作曲活動を展開したが、晩年には教会音楽の作曲に専念し、宗教曲を多く残した。現存するシャルパンティエ作品550曲のうち、ミサ曲12曲、オラトリオ35曲を含む400曲以上が宗教曲であることなどから、シャルパンティエは、17世紀フランスにおいて最大の宗教音楽作曲家と位置付けられている。
シャルパンティエの音楽の特徴としては、フランス・バロックの様式美をたたえ、複雑に絡み合う旋律の繊細優美さ、半音階等を大胆に用いた劇的な感情表現などが指摘されるが、『真夜中のミサ』(H9)(c.1690)等では、フランス民謡の旋律を多用した、親しみやすい作品づくりがなされていることも注目される。
『テ・デウム』は、ローマ・カトリック教会の賛歌(讃美歌)のひとつで、そのタイトルは、賛歌の冒頭の「Te Deum laudanus:我ら御身を讃え」に由来する。『テ・デウム』は、本来、感謝の賛歌として、主日(日曜日)及び祝日の聖務日課の朝課(朝の礼拝)等で、単旋律で歌われたが、16世紀以降は多声曲として作曲されるようになり、17-18世紀には、戦勝の祝典や、講和条約締結等の国家的行事、列聖式等で演奏される祝祭音楽の意味合いの強いものとなった。リュリ、シャルパンティエは、トランペット、ティンパニ等を伴う多声楽曲として『テ・デウム』を作曲しており、有名なところでは、ヘンデル、ハイドン、ベルリオーズ、ブルックナー、ヴェルディ等の作曲家も『テ・デウム』を作曲している。
シャルパンティエ作曲の『テ・デウム』には、(H.145)、(H.146)、(H.147)、(H.148)の4曲があるが、一般的には、『テ・デウムニ長調』(H.146)がシャルパンティエの代表作のひとつに数えられており、演奏、録音の機会も多い。『テ・デウムニ長調』(H.146)は、シャルパンティエがパリのサン=ルイ教会の楽長を務めていた1690年代初頭の作品と推定されているが、どのような機会に演奏されたのかについては、いぜん未確定のままである。
『テ・デウムニ長調』(H.146)は、独唱(8)、合唱(4)、トランペット、ティンパニ、木管楽器、弦楽器、通奏低音という編成で演奏され、シャルパンティエの作品の中でも最も豪華絢爛な作品である。特に、冒頭のトランペットによる前奏曲は、単独で演奏されることも多く、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサート等でも取り上げられている。太陽王ルイ14世時代にふさわしい華やかさに溢れた作品でありながら、宗教曲らしい敬虔な祈りの表情が宿されているところがいかにもシャルパンティエらしい佳曲である。


【歌詞】

『テ・デウム(Te Deum)』仮訳(英語訳より重訳、公教会祈祷文等を参照)
 
Te Deum laudanus:
天主に在します御身を我ら讃え
Te Dominum confitemur.
主に在します御身を讃美し奉る。

Te aeternum Pater, omnis terra veneratur.
永遠の御父よ、全地は御身を拝み奉る。
Tibi omnes Angeli, tibi coeli et universae potestates:
全ての御使いら、全て天つ御国の民、万の力ある者、

Tibi Cherubim et Seraphim
ケルビムも、セラフィムも
incessabili voce proclamant:
絶え間なく 声高らかに御身が祝歌を歌い奉る。
Sanctus, Sanctus, Sanctus
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
Dominus Deus Sabaoth.
万軍の天主

Pleni sunt coeli et terra
天も地も
majestatis gloriae tuae.
御身の栄えと御霊威に充ち満てり。
 
Te gloriosus Apostolorum chorus
誉れに輝く使徒の群れ
Te Prophetarum laudabilis numerus:
誉め讃うべき預言者の集まり
Te Martyrum candidatus
潔き殉教者の一軍、皆諸共に
laudat exercitus.
御身を讃え

 
Te per orbem terrarum
聖会は
sancta confitetur Ecclesia.
全地に遍く、共に賛美し奉る
Patrem immensae majestatis.
御身、限りなき御いつの聖父を
Venerandum tuum verum et unicum Filium:
いと崇き御身がまことの御独り子と
Sanctum quoque Paraclitum Spiritum.
また慰め主なる聖霊と。
Tu Rex gloriae, Christe.
御身、栄えの大君なるキリストよ
Tu Patris sempiternus es Filius.
御身こそは、聖父の永久の聖子
Tu ad liberandum suscepturus
世を救うため 人とならんとて
hominem, non horruisti
いとわせ給わず
Virginis uterum.
おとめの胎をも

Tu devicto mortis aculeo,
死の棘に打ち勝ち、
aperuisti credentibus regna caelorum.
信ずる者のために天国を開き給えり

Tu ad dexteram Dei sedes
御身こそは、天主の右に坐し
in gloria Patris,
御父の御栄えのうちに
Judex crederis esse venturus.
裁き主として来りますと信ぜられ給う。

Te ergo quaesumus
願わくは
famulis tuis subveni,
僕らを助け給え。
quos pretioso sanguine redemisti.
贖い給いし尊き御血もて

Aeterna fac cum Sanctis tuis
彼らをして諸聖人と共に数えらるるを
in gloria numerari.
永遠の栄えのうちに得しめ給え
Salvum fac populum tuum Domine
主よ、御身の民を救い給え
et benedic hereditati tuae.
御身の世継ぎを祝し
Et rege eos, et extolle illos
彼らを治め、彼らを高め給え。
usque in aeternum.
永遠に至るまで。
Per singulos dies, benedicimus te.
日々、我ら、御身に謝し
Et laudamus nomen tuum in saeculum,
聖名を讃え奉る
et in saeculum saeculi.
世々に至るまで。
 
Dignare Domino die isto
主よ、今日
sine peccato nos custodire.
我らを護りて 罪を犯さざらしめ給え。
Miserere nostri Domine.
我らを憐れみ給え 主よ

Fiat misericordia tua Domine
御憐れみをたれ給え 主よ
super nos, quemadmodum speravimus in te.
御身に依り頼みし我らに。
 
In te Domine speravi:
主よ、我御身に依り頼みたり
non confundar in aeternum.
我が望みは永久に空しからまじ。


【関連動画】

◆レザール・フロリサン:シャルパンティエ『テ・デウム』より





【その他の録音】
・Marc-Antoine Charpentier :Te Deum, Messe de minuit
Marc Minkowski(dir.) Les Musiciens du Louvre [DG Archiv 453479]

・Marc-Antoine Charpentier :Te Deum,
Hervé Niquet(dir.) Le Concert Spirituel [Glossa classics GCD921603]

・Marc-Antoine Charpentier :Te Deum H146, Messe pour plusieur instruments
Jean Tubéry(dir.) Namur Chamber Choir, Les Agrémens & La Fenice [Ricercar RIC245]
*BBC Music Magazine Disc of the Month February 2006



【参考文献】
・Catherine Cessac “Marc-Antoine Charpentier: un musicien retrouvé” , Fayard (1988)
・Catherine Cessac , E. Thomas Glasow (Translator) “Marc-Antoine Charpentier” Amadeus Press (1995)
・“H. Wiley Hitchcock: Pioneer in American music studies”THE INDEPENDENT, 13 December 2007.
http://www.independent.co.uk/news/obituaries/h-wiley-hitchcock-pioneer-in-american-music-studies-764841.html


【参考サイト】
◆IMSLP / ペトルッチ楽譜ライブラリー 
 http://imslp.org/wiki/
 シャルパンティエ『テ・デウム』を含め、クラシック音楽の楽譜が無料でダウンロードできるサイト。
 日本語解説あり。
◆Choral Public Domain Library  
 http://www2.cpdl.org/wiki/index.php/Main_Page
 シャルパンティエ『テ・デウム』など、パブリックドメインの合唱音楽の楽譜を無料でダウンロードできるサイト。 PDFで提供されている楽譜は、8000曲以上(英語)

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