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モラーレス『ミサ・ミル・ルグレ』 [Morales]

■Cristóbal de Morales: Missa Mille Regretz
The Hilliard Ensemble [ALMAVIVA DS-0101](輸入盤)
DS0101f.JPG

【演奏】
ヒリアード・アンサンブル
デイヴィッド・ジェイムズ、ロバート・ハル=ジョーンズ(CT)
ジョン・ポター、ロジャース・カヴィ=クランプ、マーク・パドモア(T)
ゴードン・ジョーンズ(Bs)

【演奏者】
ヒリアード・アンサンブル(Hilliard Ensemble)は、1973年頃設立されたイギリスの男声声楽アンサンブル。エリザベス朝の細密画家ヒリヤードに由来する団体名が示すように、精緻なアプローチと申し分のない技巧が持ち味で、そのレパートリーは、イギリス、フランドルのルネサンス音楽を中心に、ノートルダム楽派のオルガヌムからアルヴォ・ペルト等の現代音楽にまで及び、1993年のノルウェーのサクソフォン奏者ヤン・ガルバレクとのコラボレーションCD『オフィチウム』は、ポップチャートを賑わせる大ヒットとなった。オリジナル・メンバーのポール・ヒリアーは1990年に脱退し、ソロ活動を行っているが、ヒリアード・アンサンブルとしては、EMI-Reflexe、ECM、Virgin-veritas、Hyperion、Harmonia mundi、Hilliard Live(CORO)等から多数の音源が発売されている。

ヒリアード・アンサンブル公式サイト
http://www.hilliardensemble.demon.co.uk/

【曲目】
クリストバル・デ・モラーレス
『ミサ・ミル・ルグレ(千々の悲しみ)』
サンクトゥス(1568年異稿)
アニュス・デイ(1568年異稿)
マニフィカト
『第7旋法によるマニフィカト(Magnificat de VII tono)』
モテット
「より良き生活のうちに(Emendemus in Melius)」
『ヤコブは嘆きぬ(Lamentabatur Jacob)』
『おお、十字架よ、めでたし 唯一の希み(O Crux, Ave Spes Unica)』
ジョスカン・デ・プレ(Josquin després, c.1440-1521)『ミル・ルグレ(千々の悲しみ)』
録音:1991年3月、セヴィリア、ロレトのヌエストラ・セニョラ修道院。
アルマビーバは、スペイン、アンダルシアの音楽遺産の普及を目的として、アンダルシア地方政府を中心に設立されたレーベル。CDの入手は必ずしも容易ではないが、アンダルシア音楽資料センター等の協力のもとに、国内外から第一線の演奏家を招き、優れた音源を世に出しており、発売から約20年が経過した本作品はその第一作。


【作曲者】
クリストバル・デ・モラーレス(Cristóbal de Morales, c.1500-1553)は、スペイン黄金期を代表する作曲家のひとり。モラーレスは、トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548-1611)、フランシスコ・ゲレーロ(Francisco Guerrero, c.1528-1599)と並び、16世紀スペインの三大作曲家に数えられている。
モラーレスは、1500年頃、スペイン、アンダルシア地方のセヴィリアに生まれた(モラーレスの誕生日は、1512年1月2日、セヴィリア、聖ミゲル教区生まれとする説もある)。モラーレスの生い立ちについては、未だ不明の点が多いが、同時代のセヴィリアの記録には、1503年に大聖堂財務官に任ぜられたアロンソ・デ・モラーレス(Alonso de Morales)、参事会員フランシスコ・デ・モラーレス(Francisco de Morales )、1525年に大聖堂管財人となったディエゴ・デ・モラーレス(Diego de Morales)等の名前があり、いずれもモラーレスの縁者と目されている。
モラーレスがセヴィリア大聖堂に少年聖歌隊員として在籍した記録はないが、当時のセヴィリアは、新大陸との中継地として栄え、フランシスコ・デ・ペニャローサ(Francisco de Peñalosa, c.1470-1528.4.1)、ペドロ・デ・エスコバル(Pedro de Escobar, c.1465-c.1535)、ペドロ・フェルナンデス・デ・カスティージャ(Pedro Fernández de Castilleja, c.1480-1574.3.5)等、当代一流の音楽家たちが集まっていた。モラーレスは、生地のセヴィリアでこうした音楽家たちのいずれかに師事し、音楽を学ぶとともに、ラテン語等の古典的な教養を身につけた可能性が高いと考えられている。
モラーレスは、1526年にアビラ大聖堂楽長(maestro de capilla)に任命され、1527年から1530年の間にプラセンシア大聖堂楽長に任じられた。アビラ大聖堂楽長時のモラーレスの報酬が100ドゥカート(37,500マラヴェディス)であったのに対し、プラセンシア大聖堂楽長の報酬は60,000マラヴェディスと高報酬で、モラーレスが転職にふみきった理由もそこにあったと考えられている。モラーレスは、1530年2月4日に、セヴィリアで行われる姉妹の結婚式に立ち会うため、プラセンシア大聖堂から約1か月の休暇を取得しており、さらに大聖堂側から、両親を亡くしたモラーレスの姉妹のため婚資を贈られている。
モラーレスは、1531年末に、プラセンシア大聖堂に辞職願を提出したが、事実上、1930年には活動の拠点をイタリアに移していたと見られ、当時スペイン領であったナポリで活躍したのち、1935年ローマへ移り、同年9月1日付で教皇庁聖歌隊員となった。教皇庁聖歌隊には、スペインのバレンシア地方を発祥の地とするボルジア家出身の教皇、カリストゥス3世(在位:1455-1458)並びに、その甥、教皇アレクサンデル6世(在位:1492-1503)以来、スペイン出身者を積極的に登用する伝統があり、それがファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世(在位:1534-1549)によるモラーレスの採用にも有利に働いたと考えられる。
モラーレスは、おそらくはテノール歌手兼作曲家として、1545年までの十年間を教皇庁聖歌隊で過ごした。同時期の教皇庁聖歌隊には、フランドル楽派の作曲家ジャック・アルカデルト(Jacques ArcadeltまたはJacob Arcadelt, c.1504-1568. 10.14)や、国際的な名声を得た最初のイタリア人多声作曲家とも評されるコンスタンツォ・フェスタ(Costanzo Festa, c.1485~1490-1545.4.10)等が在籍していた。
教皇庁聖歌隊員には、教皇庁のミサや聖務日課時の演奏に加え、教皇パウルス3世のイタリア諸都市及び南フランス訪問への随行や、各国君主等のローマ訪問歓迎式典での演奏の務めもあり、それらの教皇庁内外での演奏は、作曲家たちが自作品を披露する絶好の機会でもあった。モラーレスもまた、それらの演奏機会を通じて、その名声を高めていった作曲家のひとりであり、1539年頃からそのモテットが様々なアンソロジーに編まれ、ヨーロッパ各地で人気を博した。やや遅れて1540年頃から、イタリア、フランスで、モラーレスのミサ曲が出版され始めると、モラーレスは、1544年にローマでミサ曲集を出版し、その第1巻(Missarum liber primus)をフィレンツェ大公コジモ1世、第2巻(Missarum liber secundus)を教皇パウルス3世にそれぞれ献呈した。これらミサ曲集に添えられたラテン語献呈文は、モラーレスのラテン語の素養の高さを伺わせるに充分なもので、代作と見る向きもあるほどである。
しかし、マドリガーレのような世俗音楽を多作したアルカデルトやフェスタがメディチ家の宮廷と深いつながりを持ったのとは対照的に、教会音楽作曲家であるモラーレスは、コジモ1世の歓心を得ることがかなわなかった。
モラーレスはまた、教皇パウルス3世の孫、アレッサンドロ・ファルネーゼ・イル・ジョヴァーネ枢機卿に手紙を送るなどしたが、教皇パウルス3世からも思うような引き立ては得られず、モラーレスのイタリアにおける求職活動は、結局、失敗に終わった。
教皇庁聖歌隊員には、住まいや馬、身辺の世話をする召使が用意されたほか、フランス、スペイン出身の聖歌隊員には、5年に1度、里帰りのため10か月間の有給休暇制度が設けられており、モラーレスも、1540年4月4日から1541年5月25日までスペインに帰国したものとみられる。しかし、この頃からモラーレスの健康状態が悪化し、一説にはマラリアといわれる周期的な高熱のため、務めに遅刻や病欠が目立つようになったことが勤怠記録から明らかとなっている。教皇庁の日誌に記載されたモラーレスの病欠日数は、1536年に9日、1537年に14日、1538年に15日であったのが、1543年35日、1544年90日、1545年60日と大幅に増加していった。
モラーレスは、1545年5月1日付で教皇庁聖歌隊を辞職し、故国スペインに帰国する途を選んだ。モラーレスは、1545年トレド大聖堂楽長に任命され、1548年マルチェナでアルコス侯爵の宮廷楽長、1551年にマラガ大聖堂楽長を歴任した。モラーレスは、スペインに帰国した頃にはすでに、ヨーロッパで最も偉大な作曲家のひとりとして認められており、1548、1552年に出版されたフランソワ・ラブレー(François Rabelais, c.1483-1553.4.9)の『第四之書』序文にも、「私は空想の庭園で、モラーレスや他の優れた音楽家たちが見事に歌うのを聴いた」とその名が登場している。故国スペインにおいても、モラーレスの音楽は同世代の作曲家、ビウエラ奏者のミゲル・デ・フエンラナ(Miguel de Fuenllana c.1500-1579)等に影響を及ぼし、人文学者、作家のクリストバル・デ・ヴィラロン(Cristóbal de Villalón, c.1500-1588)、 僧職者、作曲家のフアン・バスケス(Juan Vásquez またはVázquez, 16世紀初頭-c.1560)や、作曲家、音楽理論家のディエゴ・オルティス(Diego Ortiz , c.1510-c.1570) 等もモラーレスの楽才を讃えたと伝えられる。また、音楽学者、作曲家のホアン・ベルムード(Juan Bermudo, c.1510-c.1565)は、1555年に出版した著書(“Declaración de instrumentos musicales”)のなかで、モラーレスを「音楽におけるスペインの光」と激賞した。
モラーレスの作品は、その生前から、宗教改革の気運が高まりつつあったドイツを含む、ヨーロッパ全域で出版され、新大陸のスペイン領ペルー、クスコ大聖堂や、メキシコのプエブロ大聖堂等にも楽譜が伝えられていった。例えば、モラーレスの5声の「レクイエム」(1544)は、1559年11月にメキシコシティで行われた神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の追悼式で演奏され、1598年のスペイン王フェリペ2世の葬儀でも演奏された。
モラーレス作品に対する評価は、その死後もなお高く、およそ1世紀にわたって、多くの作曲家、音楽学者の模範であり、研究の対象であり続けた。1700年に教皇庁聖歌隊長に任命されたイタリア人カストラート、アンドレア・アダミ・ダ・ボルセナ(Andrea Adami da Bolsena,1663-1742)は、1711年に教皇庁聖歌隊の歴史や、過去に奉職した音楽家たちに関する著作(“Osservazioni per ben regolare il coro dei cantori della Cappella Pontificia”)をあらわし、モラーレスを「教皇庁聖歌隊で、ジョスカン・デ・プレとパレストリーナの間で最も重要な作曲家」と位置づけた。
しかし、そうした名声とは裏腹に、スペインに帰国したモラーレスの後半生は、順風満帆とは言い難かったようである。モラーレスは、トレド大聖堂楽長時代、持病に加え、少年聖歌隊員の教育等、楽長職に課せられた作曲及び演奏以外の任務の多さや経済的困難に苦しみ、辞職を余儀なくされた。もっとも、モラーレスがトレド大聖堂辞職後も二、三年毎に転職を繰り返し、安定した境遇を得られなかった原因のひとつは、モラーレス自身にあり、実務に疎く、気難しい上に、傲慢とも映る性格や、歌手たちに過酷な要求を突きつけ、妥協を許さない姿勢等が周囲との軋轢を招いたのではないかとの憶測があることも事実である。
モラーレスは、1553年9月4日、トレド大聖堂楽長への復職を願う内容の手紙をしたためたが、その願いを果たせぬまま、10月7日までの間に、マルチェナで世を去ったと見られる。


【作品】
モラーレスは、マドリガーレ1曲、モテット数曲の世俗曲を残してはいるものの、その作品は、ほぼすべて宗教曲である。モラーレスは、あらゆる教会音楽を作曲しており、少なくともミサ曲23曲、モテット100曲余、マニフィカト18曲、エレミアの哀歌5曲等が現存している。
モラーレスの作品を原曲としたパロディ作品もいくつか残されており、モラーレスの弟子で、聖母マリアに捧げるモテットを数多く作曲し、「マリアの歌い手」と呼ばれたフランシスコ・ゲレーロは、モラーレスのモテット「全地よ、神に向かいて歓呼せよ(Jubilate Deo omnis terra)」を原曲とするパロディ・ミサ「神聖にして汚れなき処女マリアよ(Sancta et immaculata virginitas )」を作曲した。トマス・ルイス・デ・ビクトリアも同曲を原曲とするパロディ・ミサ「ミサ・ガウデアムス(mass Gaudeamus)」を作曲している。なお、パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525-1594.2.2)により、モラーレスのモテット「おお、聖なる饗宴よ(O sacrum convivium)」を原曲とする同名のパロディ・ミサが作曲されている。
モラーレスの作品は、パレストリーナの先駆けとも評される美しい響きと、スペイン独特の深い情感を湛えていることが特徴である。そうした特徴は、フランドル楽派のポリフォニー技法とイベリア半島古来の作曲様式の融合による部分が大きいと考えられ、モラーレスの作品には、同時代の作曲家に比べ、調性やリズムの自由さが目立ち、現代人には調性音楽のように聞こえる和声進行や、ポリリズム等が認められる。モラーレスはまた、マニフィカトをあらゆる教会旋法で作曲したイベリア半島で最初の作曲家であり、モラーレスが教皇庁聖歌隊向けに作曲した作品はいずれも技巧を凝らした難曲である。すでに失われてしまった作品もあるが、モラーレスのモテットでは、『より良き生活のうちに(Emendemus in melius)』と『ヤコブは嘆きぬ(Lamentabatur Jacob)』が特に有名な作品で、後者は18世紀まで教皇庁聖歌隊の演奏レパートリーに加えられていた。
現存するミサ曲のうち16曲は、モラーレス自身の監修により、1544年に出版されたミサ曲集全2巻に収められており、第1巻所収の『ミサ・ミル・ルグレ(千々の悲しみ)』及び、第2巻所収の5声の『レクイエム』は、モラーレスの代表作にあげられることも多い作品である。
モラーレスは、『ロム・アルメ』など世俗曲を原曲とするパロディ・ミサを6作品残しており、『ミサ・ミル・ルグレ』は、ジョスカン・デ・プレのフランス語シャンソン『千々の悲しみ(ミル・ルグレ)』に基づく6声のパロディ・ミサである。原曲の『ミル・ルグレ』は、愛するひととの別れの悲しみを歌った4声の世俗曲で、ヨーロッパで大流行した。1591年、帰国した天正遣欧少年使節と面会した豊臣秀吉が熱心にその演奏を聴いた曲というのがジョスカン・デ・プレの『ミル・ルグレ』だったとの推察もある。
従来、ジョスカン・デ・プレ作品とされてきた『ミル・ルグレ』には、他の作曲家の作品ではないかとして定説を疑問視する研究者もいるが、同曲は神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の愛唱歌とされ、同時代のスペインの作曲家ルイス・デ・ナルバエス (Luis de Narváez, c.1500-c.1555~1560) は、ビウエラのために編曲した『皇帝の歌』等を残した。神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の宮廷礼拝堂歌手であったニコラ・ゴンベールも『ミル・ルグレ』を原曲とするパロディ作品を作曲していることなどから、モラーレスの『ミサ・ミル・ルグレ』は、1536年にローマを訪問した神聖ローマ皇帝カール5世に献呈された作品ではないかと考えられている。
モラーレスの『ミサ・ミル・ルグレ』では、原曲の最上声部の旋律を借用して、ソプラノ2声、アルト2声、テノール、バスの6声部によってミサ通常文が歌われ、モラーレスの重厚かつ荘厳な作風と哀感を帯びた原曲のメロディが見事に合致した美しい曲に仕上げられている。 


【歌詞】

◆ジョスカン・デ・プレ『ミル・ルグレ』仮訳(原文はワロン語、英語訳からの重訳)
Mille regretz de vous habandonner
あなたと別れ
et d'eslonger vostre fache amoureuse
あなたの愛らしい顔から遠ざかる千々の悲しみ
J'ay si grand deuil et paine douloureuse
かくも深き嘆きと悲痛のうちに
qu'on me verra brief mes jours deffiner
我が人生も間もなく終わりを告げるかのよう


【関連動画】
◆ヒリアード・アンサンブル:モラーレス『ミサ・ミル・ルグレ』より



【その他の録音】
・Victor Alonso(dir.) Concert de Les Arts : Morales: Messe Mille regretz [Accord 204662] (1996)
・Joseph Jennings(dir.) Chanticleer : Morales: Missa Mille regretz & Motets [Chanticleer records 8809](1993)
・Paul McCreesh(dir.) Gabrieli Consort & Players : Cristóbal de Morales, Missa mille regretz
[Brilliant Classics 93904](2009)


【参考サイト】
・国際楽譜ライブラリープロジェクト
International Music Score Library Project/ Petrucci Music Library
http://imslp.org/wiki/Main_Page
http://imslp.org/wiki/Category:Morales,_Crist%C3%B3bal_de
クリストバル・デ・モラーレスの『ミサ・ミル・ルグレ』を含め、クラシック音楽の楽譜が無料ダウンロードできるサイト。

【参考文献】
・Don Michael Randel “The Harvard biographical dictionary of music”, Harvard University Press, 1996, pp.606
・Klauss Pietschmann “A Renaissance composer writes to his patrons : newly discovered letters from Cristóbal de Morales to Cosimo I de’ Medici and Cardinal Alessandro Farnese”, EARLY MUSIC Volume XXVIII Issue 3 2000, pp. 383-402.
Subscription access(last accessed 30 October, 2010)
http://em.oxfordjournals.org/content/XXVIII/3/383.full.pdf+html
http://em.oxfordjournals.org/content/XXVIII/3/383.extract
・Robert Murrell Stevenson "Spanish Cathedral Music in the golden age ", University of California Press, 1976
・Dionisio Preciado “The “Mille regretz” Mass by Morales” Liner notes for Cristóbal de Morales: Missa Mille Regretz (ALMAVIVA DS-0101, 1991) pp.12-17
・Rui Vieira Nery “Cristóbal de Morales Officium Defunctorum / Missa pro Defunctis” Liner notes for Cristóbal de Morales: Officium Defunctorum Missa pro Defunctis(ASTREE ES9926, 1999) pp.11-15
・Jordi Abelló “Calling oneself Morales” Liner notes for Cristóbal de Morales: Requiem, Lamentabatur Jacob(Cantus C2697, 2000) pp.29-33

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