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イザーク 『インスブルックよ、さらば』 [Isaac]




【作曲者】


ハインリヒ・イザーク(Heinrich Isaac, c. 1450-26 March,1517)は、盛期ルネサンスのフランドル楽派の作曲家。イザークは、しばしばジョスカン・デ・プレと同世代で最も重要な作曲家とみなされており、ハインリヒ・イザーク、ジョスカン・デ・プレ、ヤコプ・オブレハトを15世紀フランドル楽派の三大作曲家とする評価もある。
イザークの前半生については不詳ながら、現在のベルギー、オランダの両国に跨っていたブラバント公国の生まれではないかと考えられている。イザークは、当時、優れた音楽家を多数輩出していたフランドル地方のどこかで音楽教育を受け、1470年代半ばまでに作曲活動を始めたらしい。イザークは、主にイタリア、オーストリア、ドイツで活動したため、Arrigo d'Ugo、 Arrigo il Tedesco (Tedescoはイタリア語でフランドル人またはドイツ人の意) 等の名でも知られ、Isaak、Ysaac、Ysaak等のスペルでも記録が残されている。また、16世紀スイスの音楽理論家ハインリヒ・グラレアヌス(Heinrich Glarean, October, 1488 - 8 February, 1563)の著作では、Henricus Isaac Germanusとして登場している。イザーク自身は、遺言状で自らをUgonis de Flandria(フランドル出身のHugoの子)としており、1886年にミラノで行われた調査によれば、イザークの父の名と目されるHugoはHuygensの別称と見られ、ブリュージュでの記録にIsaackeの名が確認されたという。
現在のところ、イザークの名前が確認できる最初の記録は、1484年9月15日で、インスブルックでハプスブルク家のオーストリア公ジ-クムント(Duke Sigismund of Austria,26 October, 1427-4 March, 1496)に歌手として仕えた。イザークは、ロレンツォ・デ・メディチの招きで1485年7月までにフィレンツェに移り、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂聖歌隊長、歌手、作曲家へと転じた。また1491年から1493年の間は、メディチ家ゆかりのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の歌手を兼ねた。
医師または薬剤師が祖とされ、銀行業で巨万の富を築いたメディチ家は、政治的配慮から、当時、公的なタイトルこそ持たなかったものの、フィレンツェ共和国の僭主であり、歴代にわたって、芸術家を多数庇護し、芸術、学芸のパトロンとして知られていた。イザークの仕えたロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1 January,1449-8 April, 1492:イル・マニーフィコ)の時代は、フィレンツェ・ルネサンスの最盛期であり、ロレンツォもボッティチェリやミケランジェロ等々、画家、彫刻家、人文主義者等を庇護しただけでなく、自身、詩作や弦楽器の演奏をよくし、その才を高く評価されていたという。
イザークは、ロレンツォとは良好な関係にあったと見られ、1488年から1489年の間に、ロレンツォ作の『聖ジョバンニと聖パウロ(San Giovanni e San Paolo)』に付曲したほか、ロレンツォの息子達の音楽教師を務めた。また、1492年4月にロレンツォが逝去すると、イザークは、追悼のモテットを二曲捧げている。
ロレンツォの逝去により、メディチ家の当主となったロレンツォの長男、ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Piero di Lorenzo de' Medici, 9 April, 1472- 9 November,1494)は、1492年9月に、ローマ教皇アレクサンデル6世(在位:1492-1503)の戴冠式に列席するため、ローマを訪問し、メディチ家の音楽家による演奏を捧げた。ピエロは、ローマ訪問に際し、歌手3人の衣装を新調したという記録が残っており、そのひとりがイザークであったことから、イザークは、おそらくローマ教皇の御前で演奏の機会を得たのだろう。
ロレンツォ逝去後もメディチ家に仕えたイザークだったが、1494年、シャルル8世率いるフランス軍のナポリ王国侵攻に際し、ピエロが抗戦をせず、独断でフランス軍のフィレンツェ入城を許可したため、メディチ家は、市民の怒りを買ってフィレンツェ共和国を追放され、メディチ銀行も破綻した。
フィレンツェ激動のさなか、イザークは、聖職につくことが多かった当時の音楽家の中では珍しく、1495年頃結婚したと見られ、1495年1月に、ピエロ・ベロ(Piero Bello)が娘バルトロメア(Bartolomea)の婚資をイザークに贈った記録が残されている。メディチ銀行の有力な顧客のひとりであったピエロ・ベロの娘とイザークの結婚を仲介したのは、ロレンツォ・デ・メディチではないかと見られているが、そのあたりの事情は不詳のままである。
ともあれ、メディチ家の没落により、イザークは、1495年、ピサでハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝マキシミリアン1世(Maximilian I, 在位:1493-1519)に仕官することとなり、イザーク夫妻は、1496年11月までにウィーンに移った。マキシミリアン1世は、ブルゴーニュ女公マリーとの最初の結婚で、当地の成熟した文化に接したこともあって、音楽に理解が深く、ハプスブルク家のオーストリア公ジ-クムントの領地の継承と、父フリードリヒ3世(在位:1452-1493)の崩御による神聖ローマ帝国皇帝即位後、両者から引き継いだ音楽家陣をさらに充実させるべく、内外から音楽家を集めていたのである。
1497年4月3日に、イザークがマキシミリアン1世の宮廷作曲家に任命されると、イザーク夫妻は、さらにインスブルックに移った。しかし、マキシミリアン1世は、帝国統治のため旅を日常とする毎日で、イザークもまた、1497年から 1501年にかけ、マキシミリアン1世の宮廷に伺候し、アウグスブルク、ニュルンベルク等に赴いている。
マキシミリアン1世の宮廷作曲家というタイトルは、当時の音楽家にとって大きな栄誉であったが、そのタイトルは、イザークのために設けられたものと言っても過言ではなく、作曲家には作品を提供する義務が課せられていたものの、必ずしも帝国内に居住する必要はなく、他のパトロンを探す自由も認められていた。イザークは、こうした当時としては珍しい契約のおかげで、自宅のあるフィレンツェとも頻繁に行き来することができた模様である。
イザーク夫妻は、1499年9月25日付で、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴァ病院に104フローリンというまとまった金額の寄附を行い、1502年にフィレンツェに戻った際にも、同病院に別途104フローリンを寄附している。多額の寄附の見返りとして、イザーク夫妻には、サンタ・マリア・ノヴァ病院から、一生食べるのに困らないだけの穀物やオリーブ油、塩漬け肉等の食材が定期的に贈られたほか、医療を保障された。イザークはまた、1502年以降、所用のためフィレンツェを離れた二年間を除き、亡くなるまでフィレンツェの聖バルバラ信徒会(コンフラタニティ)に会費を納めた記録が残されており、イザークは、この頃から亡き後の魂の救済を意識し始めたものと見られている。1502年8月15日には、イザークは、最初の遺言状を作成している。イザークは、最初の遺言状でも、その後の遺言状においても、全て遺産相続人に妻を指定しているが、これも当時としては異例のことであったという。
イザークは、最初の遺言書を作成した1502年8月15日から9月2日までの間に、フェラーラ公国を訪ね、モテット『ラ・ミ・ラ・ソ ラ・ソ・ラ・ミ(La mi la sol la sol la mi)』を僅か2日で完成させている。フェラーラ公エルコレ1世は、1497年に逝去したヨハネス・マルティーニ(Johannes Martini)の後任の宮廷礼拝堂楽長を探しており、イザークは、ジョスカン・デ・プレとフェラーラ宮廷礼拝堂楽長の座を争うような形で、候補に上っていたと見られている。マキシミリアン1世の宮廷作曲家であったイザークが果たして新たなポストを必要としていたのか疑義を呈する研究者もいるが、エステ家の使者の一人で、歌手のジャン・デ・アルティガノヴァ(Gian de Artiganova)は、1502年9月2日付の有名な手紙のなかで、「作曲家としては、ハインリヒ・イザークよりも上だが、感興のおもむくままにしか作曲せず、年俸200ドゥカートを要求するジョスカンよりも、性格が良く、与しやすく、新作の作曲をより多く期待できる上、就任にも意欲的で、年俸120ドゥカートしか要求しないハインリヒ・イザークが(フェラーラの宮廷礼拝堂楽長に)ふさわしい」と報告し、イザークの人柄とその楽才を讃えた。
結局、フェラーラ公エルコレ1世(Ercole I d'Este, 26 October, 1431- 15 June, 1505)がジョスカン・デ・プレを採用したことで、イザークは、 1505年から1512年にかけ、再びアウグスブルク、フィレンツェ及びコンスタンツで活動している。この間、イザークは、1506年7月4日に、妻の姉妹マルゲリータ・ベロ(Margherita Bello)の結婚式に出席したほか、1507年12月から1508年1月17日までの間に、コンスタンツで、フィレンツェ共和国の外交官、政治思想家のニコロ・マキャベリと会っていたことが確認されている。
1508年4月14日にコンスタンツ大聖堂参事会から依頼を受けた『コラリス・コンスタンティヌス(Choralis Constantinus)』全三巻は、通年分のミサ固有式文全てに付曲する最初の試みとして知られ、その膨大な作品の多くは、主として4声の模倣対位法で作曲され、イザークの代表作ともなっている。イザークは、『コラリス・コンスタンティヌス』を未完成のまま遺したが、弟子のルートヴィヒ・ゼンフル(Ludwig Senfl, c.1486-2 December, 1542 / 10. August, 1543)が完成させ、『コラリス・コンスタンティヌス』は、代理人の手で、コンスタンツ大聖堂に送り届けられた。なお、『コラリス・コンスタンティヌス』の最初の出版は、イザーク没後の1555年のことである。
イザーク夫妻は、1512 年1月4日にフィレンツェ内で小さな家に住み替え、それ以降は、短期間、家を空けることが数回あったにせよ、ほぼフィレンツェに落ち着き余生を送ったと見られる。イザークは、1512 年11月24日に、最初の遺言状の見直しを行った。二回目の遺言状では、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会(同教会が不可能な場合は、他の教会)で、毎年自らの追悼ミサが恒久的に行われることを希望し、必要な費用の支払いを遺産相続人である妻に託している。
1512年、かつてイザークが音楽教師を務めたロレンツォ・デ・メディチの次男ジョバンニが神聖ローマ帝国皇帝マキシミリアン1世の助力により、フィレンツェにおけるメディチ家の復権を果たし、1513年にローマ教皇レオ10世として即位すると、イザークは、教皇レオ10世にフィレンツェでの音楽活動の再開を願い出た。イザークは、1514年5月30日、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂聖歌隊の名誉職に任じられ、年金の支給を受けるようになり、1517年、教皇レオ10世(Leo X, 在位:1513-1521)のフィレンツェ訪問の際もイザークの音楽が演奏されたものと見られている。
イザークは、フィレンツェでの音楽活動再開に伴い、1514年に、マキシミリアン1世の宮廷を訪ね、宮廷作曲家の職務返上を願い出た。マキシミリアン1世は、イザークのフィレンツェ帰還を許したばかりか、フィレンツェ在住中も宮廷作曲家として俸給の支払いを認め、さらに余生を愉しむための年金の支給を認めており、イザークは、西洋音楽史上、終身雇用扱いとなった初めての宮廷作曲家と見られる。
イザークは、1516年、三回目にして最後の遺言状を残し、二回目の遺言状の内容を改め、自らの追悼ミサの希望期間を十年間とした。1517年3月26日に他界したイザークの葬儀は、当人の希望した通り、サンティッシマ・アンヌンツィアータ教会で滞りなく行われ、聖バルバラ信徒会(コンフラタニティ)にも、葬儀から程なくイザークの住宅価額の1/4に相当する5フローリンの寄附が届けられた。
同時代の音楽家たちの波乱万丈の人生を引き合いに出すまでもないが、研究者のRob Wegmanは、イザークについて、現代人の目から見て、驚くほど“ごく普通のひと”であった印象を受ける作曲家と記述している。イザークの妻バルトロメアは、夫に17年遅れ、1534年5月30日に亡くなった。



【作品】


イザークは、フランドル地方に生まれ、ドイツ語圏で活躍した最初の大作曲家というべき存在であり、当時、音楽の後進地域とみなされていたドイツの音楽界に多大な影響を及ぼした。特に、ドイツ語圏にフランドル流の厳格な音楽書式が受容される下地をつくったことは、イザークの大きな功績のひとつである。
ジョスカン・デ・プレの陰に隠れがちなせいか、イザーク作品の演奏や録音は、まだごく限られているが、イザークは、ミサ曲、モテット、フランス語及びイタリア語、ドイツ語歌曲、器楽曲等々、幅広い作品を数多く残した。イザークは、ドイツ音楽の伝統や習慣を取り込みつつ、ドイツ語テキストにも数多く付曲しており、音楽史上、本格的なドイツ語歌曲を創作した最初の人物でもある。
イザークの代表作としては、金字塔ともいうべき『コラリス・コンスタンティヌス』と、ドイツ語歌曲(ドイツ・リート)『インスブルックよ、さらば(Innsbruck, ich muß dich lassen)』がしばしばあげられる。インスブルックは、現在のオーストリア共和国、チロル州の州都名で、元来は、イン川に架かる橋を意味する。イン川に架けられた橋のたもとに発展した街、インスブルックは、鉱山の街であると同時に、ドイツに至るアールベルク峠、イタリアに至るブレンナー峠に近いことから交易の中継地として栄え、現在も風光明媚な観光地として知られている。
『インスブルックよ、さらば』の歌詞は、マクシミリアン1世が、1493年8月、父フリードリヒ3世(在位:1452-1493)の崩御により神聖ローマ帝国皇帝に即位するため、愛する都インスブルックを去り、ウィーンへ赴かなければならなくなった悲しみを、自ら作詞したものとも言われる。
ただし、1500年以降に世に出たと見られる『インスブルックよ、さらば』のメロディは、イザークの創作によるものではなく、民謡を編曲したものではないかと見られ、二種類の楽譜が伝わっている。この『インスブルックよ、さらば』は、後にルター派のコラール『おお 世よ、我 汝より離れざるを得ず(O Welt, ich muß dich lassen)』に引用されたほか、J.S.バッハのカンタータ『我がすべての行いに(In allen meinen Taten, BWV 97)』(1734) や『マタイ受難曲』、ヨハネス・ブラームスのオルガン曲等にも引用された。
また、『インスブルックよ、さらば』は、1964年、1976年に、インスブルックで開催された冬季五輪の閉会式でも演奏された。古楽界に限らず、『サウンド・オブ・ミュージック』のモデルとして有名なトラップ・ファミリーが演奏したものも含め、『インスブルックよ、さらば』の音源自体は少なくない。



【歌詞】(原文:ドイツ語、英語訳からの重訳)


Insbruck, ich muß dich laßen
インスブルックよ、さらば
ich far dohin mein straßen, in fremde land dohin,
我は 異国の地へと 旅出つ
mein freud ist mir genomen,
我が喜びは失われ
die ich nit weiß bekomen,
もはや得ることもかなわぬ
wo ich im elend bin.
この惨めさよ

Groß leid muß ich jetzt tragen,
いま、大いなる悲しみに耐えざるを得ず
das ich allein tu klagen.
その悲しみを分かち合えるは、
dem liebsten bulen mein
最愛の貴女のみ
ach lieb, nun laß mich armen
ああ愛しき女よ 惨めなる我を
im herzen dein erbarmen,
その情深き心もて包み給え
daß ich muß von dannen sein.
離れなければならぬこの身を

Mein trost ob allen weiben,
あらゆる女にも勝る 我が慰め
dein tu ich ewig bleiben,
我は永久に貴女がもの
stet, treu, der eren frum.
誠実に、誉高くあれ
nun muß dich Got bewaren,
御身に神のご加護あれ
in aller tugent sparen,
徳高く保たれんことを
biß daß ich wider kum.
いつか帰る日まで



【関連動画】


Capilla Flamenca Heinrich Issaac :Innsbruck, ich muß dich lassen



【録音】




Dirk Snellings (dir) Capilla Flamenca: Heinrich Isaac Insbruck, ich muß dich laßen [Ricercar R318] (2011)
カピーリャ・フラメンカは、ベルギー、ルーヴァンを本拠地とする古楽グループ。そのグループ名は、ローマ帝国皇帝カール5世のフランドルにおける宮廷礼拝堂聖歌隊に由来している。14世紀から16世紀のフランドル楽派の曲をメイン・レパートリーとし、1990年に、男声4声で、古器楽グループアンサンブル・オルトレモンターノと共に演奏活動を開始したが、2014年の創立者兼音楽ディレクターのディルク・スネリング氏(bs)の逝去を機に活動を停止した。RICERCAR以外にも、NAXOS他複数レーベルに様々な音源が残されている。本CDは、偽作の可能性のある作品も含め、フランドルに始まり、フィレンツェ、ドイツの各地においてイザークが作曲した宗教曲、世俗歌曲を収録し、イザークの音楽世界を展望できる好企画。イザークがロレンツォの死を悼み作曲したモテット等も含まれる貴重な一枚。


ロンドン中世アンサンブル:イザーク、ジョスカン、オケゲム世俗音楽集
MEDIEVAL ENSENBLE OF LONDON: HEINRICH ISAAK / JOSQUIN DESPREZ / JOHANNES OCKEGHEM SECULAR MUSIC [ L'oiseau-Lyre POCL-2538](1991)
録音が古いため再発盤も含め入手困難になりつつあるが、ドイツ語世俗歌曲のほかフランス語、イタリア語による世俗歌曲を収録したたいへん優れた演奏。



【参考サイト】


IMSLP Petrucci Music Library:(無償オンライン楽譜サイト) イザーク『インスブルックよ、さらば』
http://imslp.org/wiki/Innsbruck_ich_muss_dich_lassen_(Isaac,_Heinrich)





【参考文献】


・Rob Wegman “Isaac”s Signature” The Journal of Musicology, Vol. 28 No. 1,Winter 2011; (pp. 9-33)
・GIOVANNI ZANOVELLO “Master Arigo Ysach, OurBrother”: New Light on Isaac in Florence, 1502–17, The Journal of Musicology, Vol. 25 No. 3, Summer 2008; (pp. 287-317)


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