SSブログ

ジョスカン・デ・プレ『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ(祝福されし聖処女のミサ)』 [Josquin]




【作曲者】
ジョスカン・デ・プレ(Josquin des Prez c.1450/1455-1521.8.21) (以後ジョスカンと記載)は、ルネサンス期最大のフランドル楽派の作曲家。イタリア、フランス、ブルゴーニュで活動したため、Josquin Desprez, Josquin Desprès, Josquin des Pres、 Judocus de Pres、 Jusquinus des Prez、Josquinus Pratensis、 Jodocus Pratensis等々、時と所によって、様々なスペル表記がある。単にJosquinと表記されることも多く、ジョスカン自身はモテット『神の御母なる穢れなき乙女(Illibata Dei virgo nutrix)』の出版に際し、Josquin des Prezのスペルを用いていることが確認されている。
在世中から高名な作曲家であったにも関わらず、その名前からして表記に大きな揺れがあり、姓名も定かでない状態が長く続いたのだから、伝記的研究が難航するのも当然で、ジョスカンの前半生について確認できる事実は、未だごく僅かである。
しかし、1990年代後半になって、Lora Matthews、Paul Merkley やHerbert Kellman等の研究者の丹念な文献調査によって、ジョスカンの前半生に関していくつかの発見がもたらされた。
Lora Matthews、Paul Merkleyがミラノにおける文献調査で明らかにした事実のひとつは、15世期後半にミラノで活動した音楽家のジョスカン・デ・ケサリア(Josquin de Kessalia, Joschino de Kessalia, Joschino di Picardia等々の表記あり)なる人物が、作曲家のジョスカン・デ・プレと混同されてきたというものであった。
ジョスカンという名前は、15、16世紀には、ごくありふれたものであったといい、作曲家のジョスカン・デ・プレと同じファーストネームを持つジョスカン・デ・ケサリアは、1440年に、現在のフランス、ピカルディ地方に生まれ、1459年からミラノ大聖堂で歌手を務めた後、1474年までミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの宮廷礼拝堂で活躍した音楽家で、1498年に逝去。その父の名はオノディウスで、作曲家のジョスカン・デ・プレとは別人であったことが判明した。
それに対して、作曲家のジョスカン・デ・プレの姓名は、正しくは、ジョスカン・ルブロワット・デ・プレ(Jossequin Lebloitte, dit Desprez)であり、父の名はゴサール(Gossard)、母の名はジャンヌ(Jeanne)だったらしいことが明らかになった。更に、Herbert Kellmanの調査では、1390年代から1440年代後半、現在のベルギー領エノー(Hainaut)にLebloitte, dit Desprezの姓を持つ警吏が少なくとも2人いたことが判明しており、そのうち若い方のGosse Lebloitte, dit Desprezとして記録に残っている人物がジョスカンの父ではないかと見られている。
また、Lora Matthews、Paul Merkley他の調査で、ジョスカンが1483年、現在フランス北東部のコンデ=シュル=レスコー(Condé-sur-l'Escaut)を訪れ、おじとおばの遺産相続の手続きを行ったことを示す書類が新たに発見された。その際提出された書類によれば、1466年にジョスカンの父が亡くなった後、ジョスカンは、実子のないおじジル・ルブロワット・デ・プレ(Gilles Lebloitte, dit Desprez)、おばジャック・バネトーヌ(Jacque Banestonne)夫妻の養子(相続人)となり、ルブロワット・デ・プレの姓を継承したという。
もっとも、Lora Matthews、Paul Merkleyによれば、ジョスカンの姓にあるdit Desprezは、ファミリーネームというより通称である。dit Desprezは、ジョスカンの祖父の代から用いられ、ジョスカンの父やおじにも受け継がれたが、フラマン語のvan der Weyden(=from the fieldsの意)と同義とみられ、元来は、ジョスカンの祖父が地方の出身であることを示していたと考えられている。フランス語でも、des Prezは、プレ(Prez)出身であることを意味することから、エノー近郊で、現在のベルギー、フランス両国の国境付近を流れるオゥノワール(Eau Noire)川の南17キロの地点に位置するプレ村がジョスカンの祖父の出身地であった可能性も高い。
ジョスカン自身の生地は、当時ブルゴーニュ公領であった現在のベルギー領から、現在のフランス領にかけてのエリアであることは確実と見られるが、その何処かは不明のままである。これまでにジョスカンの生地としては、現在ベルギー領のエノ-のほか、現在フランス領でヴェルマンドワ地方の主要都市サン=カンタンに近いボールヴォワール(Beaurevoir)等が候補にあげられている。但し、ジョスカン自身がその死の直前に作成した遺言書に、自分はオゥノワール川の向こうからやって来た異邦人(フランス人)であるという内容の記載があることから、現在のフランス領生まれとの見方が有力となっている。
ジョスカンの生年もまた不詳のままである。従来は、ジョスカン・デ・ケサリアの生年である1440年がジョスカンの生年と考えられてきたが、同名の別人の生年と判明した経緯から1440年説は消え、後年、王侯貴族の宮廷に採用された際の記録等から、1450年から1455年頃と推定されているに過ぎない。
後世の証言では、1633年に、リシュリュー枢機卿の司書であったクロード・エメレ(Claude Hémeré)が, サン=カンタン司教座教会の記録に基づき、ジョスカンがサン=カンタン司教座教会の少年聖歌隊員をしていたとの記録を残しているのが注目される。サン=カンタン司教座教会の記録類はフランス革命で失われたため、検証は困難であり、疑義が残るが、ジョスカンがサン=カンタン司教座教会の少年聖歌隊員になったとすれば、1460年頃ではないかと推測されている。同時期に、サン=カンタン司教座教会の少年聖歌隊員となっていた者のなかには、フランドル楽派の作曲家ジャン・ムートン(Jean Mouton)等がいる。
但し、David Fallowsのように、1466年までカンブレのサン=ゲリ(Saint-Géry)司教座教会の侍者を務めたと記録にあるGossequin de Condetという人物が、ジョスカンではないかと見る研究者もいる。
また、1571年には、イタリアの音楽理論家、作曲家のジョゼッフォ・ツァルリーノ(Gioseffo Zarlino, 1517 -1590)が、ジョスカンとヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, c1410- 1497.2.6)は少なくとも複数回会っているという事実を同時代の書類から確認し、オケゲムとジョスカンは師弟関係にあったとの記述を残したことが知られている。やはりイタリアの音楽理論家のロドヴィコ・ザッコーニ(Lodovico Zacconi, 1555-1627)も、1592年に同様の記述を残している。
ジョスカンの師弟関係についても、今後の研究の進展を待たねばならないが、ミサ曲『御身以外の方を愛することなど(D'ung aultre amer)』等、ジョスカンの初期作品を中心に、オケゲム作品からの引用が多く見られることは事実である。ジョスカンはまた、オケゲムが亡くなった後、詩人ジャン・モリネ(Jean Molinet, 1435-1507.8.23)の「森の精霊たちよ(Nimphes des bois)」に付曲し、『オケゲムの死を悼む挽歌 (La déploration de la mort de Johannes Ockeghem)』を捧げており、ジョゼッフォ・ツァルリーノとロドヴィコ・ザッコーニは、ジョスカンがオケゲムに終生、変わらぬ敬意を抱いていたようだと伝えている。
ジョスカンが生地近くで少年聖歌隊員を経て指導者となり、いつしかオケゲムに師事する機会を得たことはほぼ間違いないと見られるが、ジョスカンがどこで音楽教育を受けたかは不詳のままである。但し、作曲家のロイゼ・コンペール((Loÿset Compère, c.1445-1518.8.16)が、1472年7月2日のカンブレ大聖堂の献堂式に作曲したとされるモテット『あらゆる善きものに充ちたる(Omnium bonorum plena)』には、アントワーヌ・ビュノワやヨハネス・オケゲム、ヨハンネス・ティンクトリス、ギヨーム・デュファイ等と並んで、ジョスカンの名前が列挙されている。このモテットで名前の挙げられているジョスカンが作曲家ジョスカン・デ・プレとすれば、おそらく作曲活動を始めて間もない1472年頃には、ジョスカンが音楽家として、若年ながら高い評価を得ていたことが伺える。
ジョスカンとおぼしき名前が認められる最初の記録は、1477年4月19日で、ジョスカンは、この日、エクス=アン=プロヴァンスのアンジュー伯善良公ルネ(René d'Anjou, 1409.1.16-1480.7.10)の宮廷礼拝堂歌手に任命され、少なくとも1478年3月26日まで在籍していたと見られる。その後、ミラノに移るまでのジョスカンの足取りは不明だが、1480年のアンジュー伯善良公ルネの薨去に伴いアンジュー伯領がフランス王国に併合されたことから、ジョスカンは、他の礼拝堂歌手等と共に、フランス国王ルイ11世(Louis XI, 1423.7.3-1483.8.30)に仕えるため1481年にパリに移った可能性が高く、ジョスカン初期のモテット『神の御慈悲を永久に誉め歌わん(Misericordias Domini in aeternum cantabo)』は、ロワール河流域のプレシス=レ=トゥール城で病臥していたルイ11世の回復を願って献呈された作品ではないかと考えられている。
ジョスカンは、ルイ11世が薨去した1483年に、コンデ=シュル=レスコーで、おじ夫妻の遺産相続の手続きを行ったが、ジョスカンのおじ夫妻は、1478年春に侵攻してきたフランス国王ルイ11世の軍隊が、住民を教会に集め、火を放って虐殺した事件の犠牲者となった可能性が高いと見られ、ジョスカンは、裕福だったおじ夫妻が所有していた宿屋等の不動産の遺贈を受けた。ジョスカンはまたこのとき、帰還を祝して、地元のノートル=ダム司教座教会からワインを贈られている。
その後、ジョスカンがハンガリー王マーチャーシュ1世(King Matthias Corvinus,1443.
2.23-1490.4.6)の宮廷に登用されたという伝聞も残されているが、ジョスカンの去就に関する確実な記録は、1484年6月19日、ミラノ公ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの弟、アスカニオ・マリア・スフォルツァ(Ascagnio Maria Sforza, 14553.3-1505.5.28)の庇護を受けたことを示す書類が登場するまで待たねばならない。
アスカニオ・マリア・スフォルツァが1484年に枢機卿となると、ジョスカンは主にミラノでスフォルツァ枢機卿に仕え、ローマやパリにも同行したと見られる。しかし、ジョスカンは、スフォルツァ枢機卿に仕えたのと時期を同じくして、フランス、ブルジュのサント=オバン(Saint-Aubin)教会の司祭として聖職禄を認められており、1489年2月、このサント=オバン教会の聖職禄の件で、フランスの高等法院で訴訟沙汰となったことが明らかとなっている。同時期に、スフォルツァ枢機卿に仕えていたイタリアの詩人、音楽家のセラフィノ・ダラクィラ(Serafino dall’Aquila, Serafino Cimini di Bazzano, Serafino dei Ciminelli, 1466-1500)がジョスカンに贈った詩からは、当時のジョスカンが「天は無慈悲だ」と不遇を嘆いていた様子が読み取れる。
スフォルツァ枢機卿に仕えた後も、ジョスカンの経歴には空白の期間が残されているが、ジョスカンは、1489年1月にはミラノに戻ったことが確認されており、1489年2月2日のミラノ公ジャン・ガレアッツォ・マリア・スフォルツァ(Gian Galeazzo Maria Sforza, 1469.6.20- 1494.10.22)とイザベラ・ダラゴナの結婚式のため、モテット『噂は災い( Fama Malum)』を作曲したのではないかと考えられている。
ジョスカンは、その後ローマ教皇庁聖歌隊員であったガスパール・ファン・ウェールベケ(Gaspar van Weerbeke , c.1445-c.1517)のミラノ到着と入れ違うようにミラノを離れ、1489年6月には、ローマ教皇庁聖歌隊員となった。ジョスカンは、少なくとも1489年から1495年3月までの間、教皇インノケンティウス8世(Innocentius VIII, 在位: 在位:1484-1492)とボルジア家出身の教皇アレキサンドル6世(Alexander VI, 在位:1492-1503)に仕えたことが記録から裏付けられており、システィーナ礼拝堂の壁には、"JOSQUINJ”のサインが刻まれているのが修復作業の際に発見されている。
ジョスカンは、ローマ教皇庁聖歌隊員を務める一方で、1489年にノートル=ダム教会及びサント=メール( Saint Omer)教会、サン=ギラン(Saint Ghislain)教会、1493年にはバス=イトル(Basse Yttre) 教会及びエノーのフラーヌ(Frasnes)教会 、1494年には、カンブレのサン=ゲリ( Saint Gery) 教会の聖職禄を認められており、1494年にはカンブレで実際に聖職に就き、ワインを贈られた記録が残されている。
ジョスカンは、1495年頃、ブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公,1478.7.22-1506.9.25 )に接近し、『スターバト・マーテル(Stabat Mater)』を献呈した模様だが、ローマ教皇庁の史料が欠落していることもあり、1495年以降のジョスカンの足取りは、再び途絶えることとなる。
その後、ローマのスフォルツァ枢機卿に猟犬の群れを送り届ける従者として、ロドヴィコ・ゴンザーガの手紙に名前の登場するユスキノ(Juschino)という人物がジョスカンと見做されることから、ジョスカンは、1498年末頃から再びミラノのスフォルツァ家に仕えるようになったと考えられている。しかし、1499年のフランス国王ルイ12世(Louis XII, 1462.6.27- 1515.1.1)のミラノ侵攻によって、スフォルツァ枢機卿が捕囚の身となったことから、ジョスカンはミラノを去り、フランスに活路を求めたものと見られる。
ジョスカンは、1500年頃から、フランス国王ルイ12世に仕えたと見られ、16世紀の音楽理論家、詩人、人文主義者のハインリヒ・グラレアヌス(Heinrich Glareanus、1488.10- 1563.2.8)の音楽理論書『ドデカコルドン』(1547)の記載によれば、ジョスカンは、ルイ12世から約束された報酬を受けられず、モテット『下僕への御言葉を思い起こし給え(Memor esto verbi tui servo tuo)』を作曲し、遠回しに報酬の支払いを促したという。この作品によって、約束の不履行を恥じたルイ12世が与えた報酬とは、サン=カンタン司教座教会の聖職位ではないかと考えられており、グラレアヌスは、ジョスカンが報酬を受け、感謝のモテット『下僕を仁慈もてあしらい給えり(Bonitatem fecisti cum servo tuo)』を捧げたと伝えている。(但し、現在、後者のモテットは、ジョスカンと同時代の作曲家エルゼアール・ジュネ・デ・カルパントラ(Elzéar Genet dit Carpentras, 1470-1548)の作品との見方が主流となっている。)
一方、音楽家のパトロンとして知られたフェラーラ公エルコレ1世は、1497年に逝去したヨハネス・マルティーニ(Johannes Martini)の後任の宮廷礼拝堂楽長を探すため、各地に使者を送っていた。その使者の一人が手紙に記したところによると、1501年にルイ12世の居城であったブロワ城を訪れたブルゴーニュ公フィリップ(フィリップ美公)から、ルイ12世に、ジョスカンをスペインまで同行させたいと申し入れがあったが、実現には至らなかったという。(もっとも、このブルゴーニュ公フィリップからの申し入れは、ルイ12世ではなく、フェラーラ公エルコレ1世に対して行われたものだとする異聞もある。)
その後、フェラーラ公の使者であった歌手のジロラモ・ダ・セストラ(Girolamo da Sestola)は、1502年8月14日付の手紙で、ジョスカンがフェラーラ宮廷礼拝堂楽長に適任であるとパリから報告している。一方、フェラーラ公の別の使者で歌手のジャン・デ・アルティガノヴァ(Gian de Artiganova)は、 1502年9月2日付の手紙で、作曲家としては、ハインリヒ・イザーク(Heinrich Isaac, c. 1450-1517.3.26)よりも上だが、感興のおもむくままにしか作曲せず、年俸200ドゥカートを要求するジョスカンよりも、性格が良く、与しやすく、新作の作曲をより多く期待できる上、就任にも意欲的で、年俸120ドゥカートしか要求しないハインリヒ・イザークがふさわしいと報告している。
フェラーラ公がジョスカンの招聘を決定したことから、ジョスカンとジロラモ・ダ・セストラは、リヨン経由で、1503年4月フェラーラに到着した。ジョスカンは、フェラーラの宮廷礼拝堂楽長として、『ミゼレーレ(Miserere, 憐れみたまえ)』等を作曲している。しかし、1503年夏に、フェラーラで伝染病のペストが発生したため、フェラーラ公とその宮廷は、コマッキオ(Comacchio)に移転し、住民の過半数もフェラーラから避難する事態となった。ジョスカンは、1504年4月にフェラーラを離れ、コンデ=シュル=レスコーに移った。
ジョスカンがフェラーラを離れたのは、このペストの発生が原因である可能性が高い。しかし、ジョスカンは、在任中もサン=カンタンとコンデ=シュル=レスコーの聖職禄を交換するなどしており、コンデ=シュル=レスコーの教会から、フェラーラ公にジョスカンの帰還を求める公式な要請があったのではないかと見る研究者もいる。
ともあれ、ジョスカンは、1504年5月3日、コンデ=シュル=レスコーのノートル=ダム司教座教会の主任司祭に任ぜられ、聖歌隊22名を含め、総勢67名の教会の長となった。同年8月には自宅を購入しており、1508年にはブルジュ大聖堂(Bourges Cathedral)楽長に招聘があったが、ジョスカンがコンデ=シュル=レスコーを離れることはなかったと見られる。ジョスカンは、 1509年9月、10月に、ピカルディで参事会の使者と会合を持ったほか、 ローマ教皇庁と1509年5月にアラス (Arras)の聖職禄の件で、1513年1月にトゥルナイ( Tournai)の聖職禄の件で、交渉を行ったことが記録から明らかとなっている。
ジョスカンの創作意欲は晩年も衰えることなく、1508年には、フランドルとイングランドのカレー条約締結を記念し、詩人ジャン・ルメール・デ・ベルジュ(Jean Lemaire de Belges, 1473-1524)の作品に付曲したモテット『もはや悲しみもなく(Plus nulz regretz)を世に送った。1515年には、パトロンであったルイ12世の葬儀のため5声の『深き淵より(De profundis)を作曲し、1520年には、神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V, 1500.2.24-1558.9.21)にシャンソンを献呈するなどしている。
ジョスカンは、死の直前に遺言書を作成し、コンデ=シュル=レスコー領主に自らの死後、財産を没収されないよう相続税を支払う意思を示したうえで、自宅を含めた資産を教会に寄進し、聖母マリアの祝日と毎週土曜日の夕べの祈りや自身の葬礼の際に、ジョスカンの自宅前で自作の6声のモテット『主の祈り/アヴェ・マリア(Pater noster / Ave Maria)』を演奏することを含め、自らの追悼行事に必要な諸費用に充てるよう遺言を遺した。
ジョスカンは、1521年8月27日にコンデ=シュル=レスコーで逝去。ジョスカンの眠るコンデ=シュル=レスコーのノートル=ダム司教座教会は、フランス革命後、跡形もなく破壊されたが、ジョスカンの墓碑に刻まれた碑文は、17世期の拓本に残され、その字面を後世に伝えることとなった。ジョスカンの最後のパトロンともいわれるネーデルラント総督マルグリット・ドートリッシュ(Marguerite d'Autriche, 1480-1530)は、ジョスカンの逝去を惜しみ、ジョスカンの肖像画と彫像の製作を命じたという。
コンデ=シュル=レスコーでジョスカンの指導を受けたとされるニコラ・ゴンベール(Nicolas Gombert, c.1495-c.1560 )は、追悼のモテット『ジュピターの娘、ムーサたちよ(Musae Jovis )』を作曲、その他にも、Jheronimus VindersおよびBenedictus Appenzellerによる追悼作品が残されている。


【作品】
ジョスカンは、一般的に、ギヨーム・デュファイ(Guillaume Dufay, c.1400-1474.11.27)とパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, c.1525-1594.2.2)との間で、最も重要な作曲家と見なされており、フランドル楽派最大の作曲家、そしてルネサンス期最大の作曲家として、16世紀のヨーロッパで高い評価を受けた。
例えば、ジョスカンの同時代人で、宗教改革の創始者であるマルティン・ルター(Martin Luther,1483.11.10-1546.2.18)は、「ジョスカンは音の支配者であり、音は彼の意のままに従わなければならないが、他の作曲家は音に従わなければならない」と評している。およそバロック期を迎える頃まで、ジョスカンの名声はその輝きを失うことなく、イタリアの外交官、数学者、哲学者、人文主義者のコジモ・バルトリ(Cosimo Bartoli, 1503.12.20-1572.10.25)は、オケゲムが音楽界のドナテッロであるとすれば、弟子のジョスカンはさしづめ音楽界のミケランジェロであるというコメントを残している(Regionamenti academia, Venice 1567)。またバルダサーレ・カスティリオーネ(Baldassare Castiglione, 1478.12.6-1529.2.2)の著作や、フランソワ・ラブレー『パンタグリュエル物語』第五之書、ピエール・ド・ロンサール『メランジェ』等々の文献にも、ジョスカンの名が登場している。
ジョスカンの名声が生前から高かった理由のひとつは、活版印刷技術の発明により、ジョスカン作品がヨーロッパ中に広まったことにあると考えられており、ルネサンス期の音楽作品の9割が歴史の闇に消えたといわれるなかにあって、ジョスカンのミサ曲集は、数次にわたり印刷され、大きな成功をおさめた。しかし、その名声の高さゆえに、ピエール・ド・ラ・リュー(Pierre de La Rue, c.1460-1518.11.20)や、アドリアン・ヴィラールト(Adrian Willaert, c.1490-1562.12.7)等を含めた、同時代の他の作曲家の作品がジョスカンの作品と偽られたり、ジョスカンの作品として誤って伝えられた例も数多く、現在もなお、作品の真贋をめぐって議論が続いている。
明白な真作と認められているのは、ジョスカンのミサ曲のうち、出版業者のオッタヴィアーノ・ペトルッチ(Ottaviano Petrucci,1466-1539)により、ヴェネツィアとフォッソンブローネで 印刷された17作品のみで、ローマ教皇庁のヴァティカン図書館や、ミュンヘン、ウィーン、ベルリン、カンブレ等の図書館収蔵作品にも疑わしい作品が混在しているのが実情である。
現在では、ミサ曲18曲、モテット約90曲、世俗歌曲約60曲、器楽作品約10曲がジョスカンの真作と見做されており、真作と認められる作品については、ほぼ録音が進み、比較的容易に作品を耳にすることができるようになっている。
ルネサンス期のミサ曲は、定旋律ミサ(カントゥス・フィルムス・ミサ, cantus firmus mass)、パラフレーズ・ミサ(paraphrase mass)、パロディ・ミサ(parody mass)に大別され、定旋律ミサとは、既存の単旋律または多声曲の一声部(主にグレゴリオ聖歌だが、世俗曲でも可)をテノールなど特定の一声部に置き、それに新たな対旋律を付けることで、全楽章に統一性を持たせたミサ曲を指す。それに対し、パラフレーズ・ミサとは、聖歌等の旋律を自在に編曲して作曲されたミサ曲を指し、パロディ・ミサは、定旋律ミサと対比して、主にモテットやシャンソンなど既存の世俗音楽(多声曲)を用いたミサ曲をいう。
定旋律ミサといえば、初期ルネサンスを代表する作曲家ギヨーム・デュファイによる傑作の数々があるが、ジョスカンの世代になると、ルネサンス・ポリフォニーは芸術的頂点に達したと評されるように、ジョスカン作品では、教会音楽のみならず世俗音楽においても、極めて洗練された技巧が駆使され、次世代の作曲家に大きな影響を与えた。
ジョスカンは、旋律を複数の節に分け、各々の節に動機を与え、全声部がその動機を模倣しながらポリフォニーを展開してゆく通模倣様式という新たな作曲技法を確立した作曲家として知られるが、ジョスカンの音楽ではまた、均整を保ちつつ歌詞の内容表現を可能としたことが大きな特徴で、16世紀の作曲家、音楽理論家のアドリヌス・プチ・コクリコ(Adrianus Petit Coclico, 1499-1562)は、「ムジカ・レセルヴァータ(教養ある知識層の鑑賞のための音楽, Musica reservata)」と性格づけている。
『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ(Missa de beata virgine, 祝福されし聖処女のミサ)』は、聖母マリアの祝日のための通常文聖歌に基づくパラフレーズ・ミサ曲の傑作で、16世紀を通じ、ジョスカンのミサ曲のうち最も人気が高かった作品である。
『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ』は、ジョスカンが晩年に作曲したミサ曲三作品のなかでは最も早い時期に成立した作品と見られ、続いて『ミサ・シネ・ノミネ(Missa Sine nomine)』、そして最後に代表作の『ミサ・パンジェ・リングァ(Missa Pange lingua)』が作曲されたものと考えられている。
しかし、『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ』は、キリエ(Kyrie)とグロリア(Gloria)が4声、クレド(Credo)、サンクトゥス(Sanctus)及びアニュス・デイ(Agnus Dei)が5声という構成で、1503年頃のローマ教皇庁ヴァチカン図書館所蔵の写本には、グロリアとクレドのみが収められていること等から、ジョスカンが通作ミサ曲として作曲した作品ではないとの見方もある。
『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ』は、1514年に、オッタヴィアーノ・ペトルッチの出版したジョスカンのミサ曲集第三巻に現在知られているような通作ミサ曲として収められたが、作品そのものは1510年頃に成立したものと考えられている。但し、ペトルッチが既存のジョスカン作品の断章をまとめ通作ミサ曲として再構成したのか、はたまたジョスカン自身が既作のグロリアとクレドに、キリエ、サンクトゥス、アニュス・デイを新たに作曲し、通作ミサ曲の形式を整えたのかは謎のままである。
聖母マリアを讃える『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ』には、ハインリヒ・イザーク等、他の作曲家による作品も多く存在しており、後代にも、モラーレスやパレストリーナの作品が残されている。
ジョスカンの次々代のフェラーラ宮廷礼拝堂楽長となったアントワーヌ・ブリュメル(Antoine Brumel,c.1460-1512/1513)も『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ』を作曲しており、グラレアヌスは『ドデカコルドン』のなかで両者の作品の出来栄えを比較し、「私の見たところ、ジョスカンがはるかに凌駕している」と評した。同時代人の目から見てもジョスカン作品の完成度の高さは、やはり別格であったようで、ジョスカン没後500年となる2021年の節目を前に、さらなる録音の充実が期待されるところである。


【歌詞】
ミサ曲通常文仮訳(日本カトリック教会式文等参照)

◆キリエ(Kyrie)
Kyrie eleison.
主よ、憐れみ給え
Christe eleison.
キリストよ、憐れみ給え
Kyrie eleison.
主よ、憐れみ給え

◆グロリア(Gloria)
Gloria in excelsis Deo.
天のいと高きところには、神に栄光あれ
et in terra pax hominibus bonae voluntatis.
地には、善意の人に平和あれ
Laudamus te.
我らは主を誉め
Benedicimus te.
主を讃え
Adoramus te.
主を拝み
Glorificamus te.
主を崇め奉らん
Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.
主の大いなる栄光ゆえに 感謝し奉る
Domine Deus, Rex caelestis, Deus Pater omnipotens.
神なる主、天の王、全能の父なる神よ
Domine Fili unigenite, Jesu Christe.
主のおひとり子、イエス・キリストよ
Domine Deus, Agnus Dei, Filius Patris.
神なる主、神の仔羊、父の御子よ
Qui tollis peccata mundi, miserere nobis.
世の罪を除き給う主よ、我らを憐れみ給え
Qui tollis peccata mundi, suscipe deprecationem nostram.
世の罪を除き給う主よ、我らの願いを聞き入れ給え
Qui sedes ad dexteram Patris, miserere nobis.
父の右に座し給う主よ、我らを憐れみ給え
Quoniam tu solus sanctus,
主のみ聖なり、
Tu solus Dominus, Tu solus altissimus,
主のみ王なり、主のみいと高し、
Jesu Christe.
イエス・キリストよ.
Cum Sancto Spiritu in gloria Dei Patris.
聖霊とともに 父なる神の栄光のうちに.
Amen.
アーメン.

◆クレドCredo
Credo in unum Deum
我は信ず 唯一の神
Patrem omnipotentem
全能の父
factorem caeli et terrae, visibilium omnium et invisibilium
天と地、見えるもの、見えざるもの、万物の創造主を.
Et in unum Dominum Jesum Christum,
我は信ず 唯一の主 イエス・キリスト
Filium Dei unigenitum.
神のおひとり子を
Et ex Patre natum ante omnia saecula.
万世のさきに、父から生まれし
Deum de Deo, lumen de lumine, Deum verum de Deo vero.
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神を
Genitum, non factum, consubstantialem Patri:
造られずして生まれ、父と一体である
per quem omnia facta sunt.
万物の創造主を
Qui propter nos homines,
我ら人類のため
et propter nostram salutem descendit de caelis.
我らの救いのために 天より下り
Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine:
聖霊によりて 聖母マリアから御体を受け
et homo factus est.
人となられし方を
Crucifixus etiam pro nobis
我らのために十字架にかけられ
sub Pontio Pilato passus, et sepultus est.
ポンテオ・ピラトのもとに 苦しみを受け、葬られ給えり
Et resurrexit tertia die, secundum Scripturas.
聖書に書かれた通り、三日目に蘇られ
Et ascendit in caelum: sedet ad dexteram Dei Patris
天に昇りて、父なる神の右に座し給えり
Et iterum venturus est cum gloria
主は 栄光のうちに再び世に来られ
judicare vivos et mortuos
生ける者と死せる者を裁き給う
cujus regni non erit finis.
主の国は終わることなし
Et in Spiritum Sanctum, Dominum, et vivificantem
我は信ず 主なる、生命の与え主たる精霊を
qui ex Patre Filioque procedit.
聖霊は 父と子より出で
Qui cum Patre et Filio simul adoratur, et conglorificatur
父と子とともに、拝され、あがめられ
qui locutus est per Prophetas
預言者により語られ給えり
Et unam sanctam catholicam et apostolicam Ecclesiam
我は信ず 唯一の、聖なる、公の使徒継承の教会
Confiteor unum baptisma in remissionem peccatorum
我は罪の赦しとなる唯一の洗礼を認め
Et exspecto resurrecationem mortuorum.
死者の復活と
Et vitam venturi saeculi.
来世の生命を待ち望まん
Amen
アーメン

◆サンクトゥスSanctus
Sanctus, Sanctus, Sanctus Dominus Deus Sabaoth.
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主
Pleni sunt caeli et terra gloria tua.
天地は主の栄光に満てり
Hosanna in excelsis.
天のいと高きところにホザンナ
Benedictus qui venit in nomine Domini
誉むべきかな、主の御名によって来たる者
Hosanna in excelsis
天のいと高きところにホザンナ

◆アニュス・デイAgnus Dei
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: miserere nobis.
世の罪を除かれる神の仔羊よ、我らを憐れみ給え
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: miserere nobis.
世の罪を除かれる神の仔羊よ、我らを憐れみ給え
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi: dona nobis pacem.
世の罪を除かれる神の仔羊よ、我らに平安を与え給え


【録音】


・Maurice Bourbon(dir.) Metamolphoses, Biscantor, Coeli et terra
Josquin Desprez: Missa Pange Lingua, Missa de Beata Virgine
[AR Ré Sé AR20151] (2016)


・Peter Philips(dir.) Tallis Scholars
Josquin: Missa de beata virgine and Missa Ave maris stella
[Gimell CDGIM044](2011)


・Paul Hillier(dir.) THEATRE OF VOICES
Josquin Desprez: Missa de Beata Virgine, Jean Mouton: Motets
[Harmonia mundi HMU907136](2006)


・Bernard Fabre-Gallus(dir.) A SEI VOCI
Josquin: Missa de Beata Virgine, Motets [Astrée E8560](1996)
A SEI VOCIは、1977年に結成されたフランスの声楽アンサンブル。1991年に、創設者の一人であるベルナール=ファブル=ガリュスの指揮の下にメンバーを一新し、ルネサンス、バロック期の声楽作品、特にジョスカンの一連のミサ曲のAstrée録音ではディアパゾン・ドールを受賞するなど、高い評価を得たが、2011年9月、経済的理由により、活動を停止した。
この『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ』のCDジャケットには、かつてジョスカンが仕えた教皇アレキサンドル6世の庶子、ルクレツィア・ボルジアがモデルと考えられていたバルトロメオ・ヴェネト『フローラ』が用いられている。Astréeレーベルの創立者Michel Bernstein(1931-2006)の逝去を前に、Astréeレーベルの音源は、Naïveに売却されたが、CD再発売の見通しは不透明。現在は、主としてダウンロード販売のほか、ナクソス・ミュージック・ライブラリー等でも聞くことができる。


【関連動画】
・Bernard Fabre-Gallus(dir.) A SEI VOCI Josquin: Missa de Beata Virgine





【参考サイト】
・Imslpペトルッチ楽譜ライブラリー
http://imslp.org/wiki/
http://imslp.org/wiki/Missa_de_Beata_Virgine_%28Josquin_Desprez%29
(パブリックドメインの楽譜を公開しているサイト。ジョスカン『ミサ・デ・ベアタ・ヴィルジネ』楽譜の収録あり)


【参考文献】
・Willem Elders, Josquin des Prez and His Musical Legacy: An Introductory Guide, Leuven University Press, 2013
・David Fallows, Josquin Brepols, 2009
・Marin Picker(ed.) The Chanson Albums of Marguerite of Austria, University of California Press, Berkeley 1965
・Marianne Yvette Kordas, Two Historiographical Studies in Musicology: Josquin Des Prez, a History of Western Music, and the Norton Anthology of Western Music: a Case Study; & in Search of Medieval Irish Chant and Liturgy: a Chronological Overview of the Secondary Literature, " Theses and Dissertations. Paper 234, 2013
・Lora Matthews and Paul Merkley, Indochus de Picardia and Jossequin Lebloitte dit Desprez: The Name
of the singer, The Journal of Musicology Vol. 16, No. 2 (Spring 1988),
・Paul Merkley, Josquin Desprez in Ferrara, The Journal of Musicology Vol. 18, No. 4 (Fall 2001), pp. 544-583
・Rob C. Wegman "And Josquin Laughed..." Josquin and Composer's Anecdote in the Sixteenth Century, The Journal of Musicology VolumeXII Number 3. Summer 1999, University of California




共通テーマ:音楽

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。